モノ

ウミノモノ、サトノモノ、ヤマノモノ。日本語のモノはふしぎな言葉で、ただ姿形をもった物体というだけでなく、植物を芽吹かせたり、動物を産み出すような土地の力を受けたものを意味します。山菜やきのこがヤマノモノと呼ばれるのも、山の豊かな生産力によって産み出されたものだから。モノには土地の息吹のようなものが吹き込まれているのです。

日知舎ではさまざまなモノをつくり、販売しています。そのいずれもが、モノが生まれる土地から、その土地に住みモノをよく知る人から、部外者の私たちがモノを学び、一緒につくったものです。商品の背景にある大切なものを、日知舎のモノに乗せて届けたいと考えています。

おえ草履

日知舎のおえ草履は、山形県の旧朝日村(現鶴岡市)大網に住む渡部志げさんとの出会いから生まれました。初めてお会いした時、志げさんは満90歳。網目の並んだ草履は美しく、朗らかに笑う作り手を映しているようでした。住んで3年になるという家の、日当りのいい小さな仕事場で、おえ草履は編まれています。

3年前まで同じ村の別集落に住んでいた志げさんは、大きな地滑りが起こり、引越しを余儀なくされました。季節とともに日々の仕事があり、暮らしはその土地の上に成り立つという、かけがえのない環境はそのとき失われてしまいましたが、志げさんは手を動かすことをやめず、おえ草履をつくり続けました。その姿に心を動かされ、またおえ草履自体が持つ魅力に打たれて、私たちは志げさんのもとへ通うようになりました。

「おえ」とは、カヤツリグサ科フトイの地方名です。筵や畳表の素材になることはあっても、草履に使われるのは稀です。しかしその滑らかで肌当たりのよい履き心地は、草履にこそ最適な素材と思えるほど。夏の土用の前に刈り入れ、天日干しを施し、雪を待ち、かまくらの中で硫黄で燻すことで虫を出し、さらに乾燥させて、おえは編まれてゆきます。

花緒に施してあるのは、庄内刺し子。日本三大刺し子に数えられる美しい意匠は、作業着の補強と保温性を高めるために生まれたものです。そのベースにはどのような布も貴重だった時代に、着倒した衣類をつなぎあわせて新しい一着をつくった暮らしの針仕事があり、数ある刺し模様には、豊作や魔除けなどの願いや祈りが込められています。花緒の生地には会津木綿。今も綿花から栽培し、天正年間から日常着や野良着、寝具として用いられてきたこの織物は、通気性に優れて丈夫なうえ、柔らかな質感と虚飾のない風合いを湛えています。

同じ時代に、別々の手によってつくられてきたモノたちが出会うことによって、日知舎のおえ草履は生まれました。丹念に編まれた草履に、豊かな表情を与える庄内刺し子の花緒。この手仕事は今、若き継承者たちによってつくられています。私たちはこれをあらたなプロダクトとして現代に流通させることによって、土地に根づいた手仕事のこれからを見つめていきたいと考えています。

このおえ草履が、みなさまの足に馴染んでくれますように。

制作者 プロフィール

渡部志げ
1922年山形県鶴岡市(旧朝日村)大網字七五三掛生まれ。湯殿山を詣でる道者(参詣者)で栄えた七五三掛は一面に桑畑の広がる集落で、昭和四十年代から養蚕に従事。飯場の手伝いや紡績工場への出稼ぎを経て、おえ草履の制作を開始。'09年大規模な地滑りによる移住後も、創意工夫を凝らしながら生きがいとしての手仕事を編み続けている。

井戸川美奈子
1981年福島県南相馬市出身。2011年に南相馬市から山形県鶴岡市へ移住。出羽三山に接し山伏修行に入る。町の荒物屋でおえ草履と出合い、日知舎のおえ草履製作に参加。渡部志げさんのもとに足繁く通い、おえという素材との付き合い方や草履の編み方から、手仕事の心得にいたるまでを学び、その手仕事を継承している。

飯塚咲季
1987年群馬県前橋市出身。東北芸術工科大学芸術学部で洋画を学ぶ。卒業後、山形市でアトリエを兼ねたシェアハウスを管理しながら自給自足的な生活を営む。現在同大教養ゼミナールにおいて農芸の授業を指導し、針子集団艸絲(ソウシ)を運営して庄内刺し子を継承している。

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